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私の取材経験で欠けているミッシング・ピースの一つに、1954年に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で、日本の漁船が被ばくした事件があった。「第五福竜丸」という名前で思い出す人もいるだろうが、実はあのマグロ漁船「第五福竜丸」は、もとは三浦半島の突端、三崎港のカツオ漁船だったことを昨日、初めて知った。
広島・長崎に原爆が投下され、敗戦国となった日本は連合国の占領を受けた。その主導権を握った米国は、原爆の被害について報道管制を敷いた。終戦後7年間、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し、占領が終わるまでそれは続いた。
1954年にビキニ被災で被ばく者が出て、初めて「そういえば、広島・長崎にも被ばく者はいたではないか」と振り返り、原水爆の根絶を訴えるための、「原水爆禁止世界大会」が翌年8月6日に初めて開かれた。ビキニ環礁での被災がなければ、広島・長崎の被害は歴史の中に埋もれたままだった可能性があった。
報道管制下に置かれてしまうと被害に目を向けない、この日本の国民性ともいうべき性質は、この頃に始まったものだった。
この衝撃的な史実を私が知ったのは、昨年の秋だった。情けなかった。このことに突き当たったのは「四大公害病」の執筆を終えた後だ。四大公害病被害の補償制度の発想は原爆症認定制度にあったが、ではそれがどのようにしてできたのかまでは、この本では掘り下げることができなかった。
「四大公害病」が未だに現在進行形であることから、その元の制度についても調べておきたいと思った。すると、驚いたことに、「原爆認定制度の在り方に関する検討会」が開催されている最中だった。政権交代によって始まったもので安倍政権が引き継ぎ、去年暮れに検討会としての結論がでるというタイミングだった。
過去を掘り始めてさらに分かったことがあった。ビキニ被災で、「そういえば、広島・長崎にも被ばく者はいた」、と初めてその被害に日本人は目を向けた。しかし、まだ十分に目を向けられないまま現在に至っている被害があった。一晩の被害としては原爆よりも大きな「東京大空襲」をはじめとする空襲被害者だ。愕然とした。愕然としたのはその事実よりも、この年になるまでそのことに気づいていなかった自分に対してである。
唖然呆然愕然としながら書いたのが、『公正な国家賠償のあり方を示せ 分断された戦後処理 原爆症認定制度』(週刊金曜日2013年9月27日) だ。
それ以来、埋もれた歴史を「現在」につないだ「ビキニ被災」とはどのようなものだったのか知らなければ、と頭の片隅に置いていた。神奈川新聞の報道で「ビキニ被災60周年三浦市民集会」が開かれることを目にして、昨日(2014年4月20日)、まず行ってきた。
安斎育郎・立命館大学名教授の90分におよぶ講演で、それが東電福島第一原発の被害へと一筋につながった。
この集会は実行委員会主催、三浦市、三浦市教育委員会、三浦港報社、神奈川新聞社、神奈川県被爆被災者の会、神奈川県生活協同組合連合会の後援で、ビキニ水爆実験の被災者の他、広島原爆の被災者、福島原発事故の被災者も招かれて開催された。
事件を語り継ごうとこのような市民集会を行った三浦市の市民に敬意を表したい。
以下、以前の私の夢を覚えてくださっており、あれはどうなったかな?と思ってくださっている方のためと、自分への覚書として書いておきます(まだ整理の途中だけれど)。
私、2004年から2007年まで「森のニンシン」というメルマガを書いていました。「ニンシンと日本人」というメルマガを書き終わり(=仕事を辞めて突入した不妊治療生活をストレス発散のために書いていた)、次の人生をどうしようかと思っていた前後に、書き始めたメルマガでした。
社会復帰をするにあたり考えたのは、自分はそもそも何をやりたかったのか、ということでした。頭に浮かんだのは、「林業再生」でした。
1995年に応援を始めた徳島県の木頭村(きとうそん、現、那賀町)のダム反対運動は成功裏に終わったものの、木頭村の課題がそれで終わったわけではありませんでした。
村の振興策として始まった「きとうむら」の努力が今でも続いていますが、林地が9割を超えているこうした自然豊かな村が、本当に豊かに暮らしていけるようになるためには、道路工事やダム建設などを受注して大きくなっていった土建業の人材が林業へとシフトして、林業で食べていける村になることが長い目で見た場合の一つの答えだろうと考えたからです(その頃はまだ、少なくない先進諸国で林業が重要な基幹産業であることには気づいていなかったのですが)。
そこまで関わることが、関わり始めた者の責任ではないかと思いながらも、林業の「り」の字も知らず、移住してゼロから始める勇気も知恵も才覚もなく、できる所からと考えたのが、馬鹿の一つ覚えで、メルマガの発行でした。
自分はニンシンできなかったけれど、森を豊かに、林業を再生させたいと、「森のニンシン」と名付けて、都会にいながらにして、データを読み、勉強しながら<すぐにそれが国際商品であることとそうしたとらえられ方が日本ではされていないことに気づき>、ボチボチと林業現場へ足を運ぶことにしました。
女性はよく「妊娠や出産」で社会の一線から退くと復帰がたいへんだと言われますが、「妊娠失敗」からの社会復帰もなかなかたいへんです。それなりに傷ついた心も抱えながら、同様に傷つく人がいませんようにと思いながらの活動もしながら、私は人よりいろいろな経験をしているから、人よりずっと強い、使わずに済んだ「ママ時間」の分まで「ラッキー」と考えていこうと思っていました(ちょっとだけ気負っていた)。
結果的に、林業再生という「夢」では食えないだろうと思い(才覚がない)、「ニンシンと日本人」を本(色々な願いを込めて、表紙は木頭村に移住し、「こんな生き方ができたら素敵だな」と思っている玄番真紀子さんに描いてもらった)にしていただけた幸運に乗って自然に前々職であるジャーナリストに戻りました。その校正原稿ができるころには、森の中で「林業」を勉強しており、その流れで「森のニンシン」を始めました。
社会復帰後の展開で想定していなかったのはダム問題への取り組みです。活動の軸足を林業再生へと移そうとしていた矢先に、あるきっかけで人知れず眠っていた首都圏のダム問題と向き合うことになりました。そのまま再びのめり込むことになりそうだという予感がしながら、やはり、そうなりました。もうほとんどないだろうと思っていたダム問題がまだまだ各地にあったからです(このブログの右下のRiver Keepersをご覧ください。これは一部です)。
一方で、「森とニンシン」の流れで、2006年から某林業誌の編集のお手伝いをすることになり、同時並行であるご縁の延長で、医療問題にも関わりつつ<現在人任せに放置中>、博士課程に入り、あれもこれもでもみくちゃになっているところに、東日本大震災が起きました。ただでさえ、三兎も四兎も追いながら、ジャーナリストとして食べていけるように(それ一つでも無謀なのに)努力している最中にニッポンの危機です。私は一体何をどうすべきか?
ジャーナリストの中には、それまでの生活を変えて「3.11後」中心の人生を選び取っていった人がいます。同様に同時期に研究室に入った仲間にも「今自分を被災者のために活かさずに何のための研究か」と目の前の研究を潔く捨てる選択した人がいる中で、私はいつまでも迷いと後ろめたさと言い訳を胸の内に抱えながらも、選択できずに過ごしました。
「やらなければならないことは、できないと思っても石にかじりついてもやる」という助言(ある人に「同時に全部やらなければならないと思うことが『自分にはできない』と思ったときにはどうしていますか」と聞いたら、「石にかじりついてもやるんだ」と@@;)に従うことを選び、すべてを捨てることなく、週一回は大学院、年に4回は林業に目を向ける周期を繰り返しながら、ジャーナリスト活動もして、2012年末に研究生活には一つの区切りがつき、林業誌もようやく今月卒業が可能となりました。結局、林業再生への夢にはほとんど近づけていませんが、これも一端退去です。
去年暮れから準備してきましたが、分散していたエネルギーを集中する環境が整ってきました。そんなとき、4月9日、川遊びの天才で「長老」と呼んで頼りにしてきた藤田順三さんががんで亡くなりました。自分の寿命はあと10年だと考えることにして今後を生きていくことにしました。
そして昨日、はっと気づきました。今年春は、中南米の放浪から日本に帰ってきてから丸20年です。何かをやりたいと思っても何もできない自分から始まって、今では死ぬまでにはとてもやりきれないほどにやらなければと思うこと、できることがたくさんあるようになりました。ここから先は前を向いて走るのではなく、後ろを振り返ってやり残したことを片づけながら前へ進むイメージで(目は後ろ、進行方向は前)生きて行こうと思います。
傍聴前後に「江戸川区スーパー堤防取消訴訟を支援する会」から受けた情報にげんなりした。国と江戸川区は江戸川区平井4丁目に東電が持つ土地を買い取った住友不動産の意見は聞いて、スーパー堤防事業を断念したという。
2013年1月、東電が土地を売却するにあたり、国交省はそれがスーパー堤防の計画区域であることを売却先に周知するよう依頼。
2013年4月、東電は住友不動産に売却。住友不動産と国交省で協議を開始。
2013年7月、住友不動産、国交省、江戸川区の三者で協議。
そして今年2014年2月、住友不動産によるマンション着工予定(2014年6月)と国のスーパー堤防着工予定(2015年11月以降)が合わない、後者に合わせた場合、前者の経費負担があることを理由に、国はスーパー堤防事業を断念した。
つまり、東電跡地はスーパー堤防予定地だったが、そこを買った住友不動産の意見を受け入れスーパー堤防は止めて、今と同じ高さでマンションを建設して売る。
同じ江戸川区でも長年住み続けてきた北小岩の予定地の反対意見は一切聞かずに、それとほぼ同時並行で「除却」だ「催告」だと脅してきていたのだ。
盛土は2011年の大震災でも様々な被害が出ており、その上に住むことへの不安は、裁判でも訴えられてきた。住友不動産が盛土せずにマンションを建てて良いなら、北小岩も何故それではいけないのか。
それだけではなかった。今年7月からは反対住民の住居を江戸川区が直接解体する「直接施行」の手続に入る方針を固めたことを区議会の各派に説明を始めたのだという。
しかも、「7月の手続なら6月の補正予算で審議すればいいのに、2014年度予算の予備費1億円をあてるというのです。議会で審議されることを避ける狙いではないか」というのが議会関係者の見方である。
江戸川区北小岩のスーパー堤防事業予定地 (2014年3月24日撮影)
2014年4月18日11時、東京地裁803号法廷。スーパー堤防を巡る新たな裁判が始まった。
中身は地味でシンプル。原告は高橋新一さん他4名。被告はスーパー堤防計画地の上で区画整理事業を進める江戸川区。裁くのは谷口豊裁判長、横田典子裁判官、下和弘裁判官の3人。被告である江戸川区が、土地区画整理事業による「仮換地」という後戻りのきかない手続きの後で、事業計画の変更手続きを始めたことを、違法であるとして仮換地の取消を地権者が訴えた。
少しだけ詳しく言うと次のようなことだ。
江戸川区は区が主体となってスーパー堤防の上で土地区画整理事業を行おうとした。いったんスーパー堤防が廃止とされたときも、江戸川区は「盛土をする土地区画整理事業」だとして継続を決めた。
そしてその延長線上で昨年、江戸川区は土地区画整理法に基づいて「仮換地」を進めた。
仮換地というのは、土地区画整理事業の要ともいうべき手続だ。地権者がいったん移転した後、区画整理後に戻る場所を決める手続だ。
その後、「引っ越しをしたくない、このまま住み続けたい」という住民も含めて、全世帯に建物を取り壊して出ていけという意味の「除却」を求めた。渋々賛成した人はおとなしくこの求めに応じて取り壊しと引っ越しを開始した。出てまた戻ってくるという二度の引っ越しを嫌う人は住んでいた土地を区に売って永遠に出て行った。
驚愕するのはその後だ。今年1月、「あ、そういえば」と思い出したようなタイミングになって江戸川区は土地区画整理法に基づく事業計画変更の手続を開始した。
「そういえばですね、事業者が、これまで江戸川区単独でやってきましたけど、昨年5月に国と一緒に進めることにしたんです。その中身を公開しますから、読んでご意見をください」
簡単に言えばそういうことだ。法手続きとして初めて、江戸川区が単独で進める「盛土をする土地区画整理事業」から、国と江戸川区が共同で実施する「スーパー堤防上の土地区画整理事業」へと変更したいと思うがどう思うかと、住民を始めとする関係者に尋ねたのだ。
大半の人が家を壊して出て行った後だ。その後でどう思うかと聞かれても困るタイミングだ。
なんてこった!とこの事実を知ってすぐ、江戸川区役所の担当者に聞きに行った。なぜこんなタイミングにしたのか? すると、何も突然変更すると言ったのではありません。国との共同実施することは昨年5月からご説明していましたと言う。
区が「ご説明」することと、法律に基づいて関係者が「意見を提出できる」のとは大きな違いがあることにまるで思いが至っていない。
住民の暮らしに大きな影響を与える手続なので、意見が出た場合は、それを都の都市計画審議会にかけることを法律が求めている。その重要な手続もこれからだ。この手続がこれから行われるというのにもかかわらず、もう大半の家は取り壊されているのだ。
昨日(4月18日)の第一回の口頭弁論では、納得がいかないとして残って住み続けている反対地権者が、スーパー堤防との共同実施事業となれば、「盛土をする土地区画整理事業」と見かけ上は同じでも、河川法の指定を受けて権利制限を受ける。それなのにこの計画変更手続をしないで仮換地を行ったのは違法だと訴えた。
法律がありそれを執行する行政がある。行き過ぎた権力の行使を民主的な手続によって防ぐために縦覧、意見提出、審議会の手続がある。ところが、被告である江戸川区は、それをすっ飛ばして、「仮換地」「除却」「直接施行」(自分で取り壊さないなら行政が強制的に取り壊す手続)へと進んできたし、進もうとしている。これを違法であると訴えている。
閉廷後、「これで原告が勝訴できなければ、もう日本の民主主義はない」と感想を述べた支援者がいた。
こと「公共事業」では、意見を「聞き置く」形骸化した「参加手続」が当たり前になっている。しかし、今回は、形骸化を遥かに超越して、実質的な事業を進めながら「聞いたところでどうしようもない」、形式すら崩れたタイミングで手続を開始した。このような「参加手続」を合法であると認める判断が許されるわけがない。
今回原告となった地権者の方々は、周囲の家が取り壊された荒涼とした区画整理事業予定地に取り残されたように暮らしている。私なら諦めて出ていってしまいたくなるだろう。反対地権者がそうしないのはこの事業によって次に苦しめられる人がいないようにしたいという思いからだ。そういう思いまでが裁判官に届いて欲しい。
開廷の一時間前に裁判所に到着し、撮影の許可を求めようとしたが、「最低でも1週間前に求めよ」と言われたので、今回は仕方がなく裁判官3人が並んだところを描いてみた(うーむ、3歳児も顔負けだろう)。
左から横田典子裁判官、谷口豊裁判長、下和弘裁判官。
次の期日が2014年6月20(金)13:30~ 803号法廷 と決まったので、その足で総務課に行き、「撮影および録音の許可願い」を東京地裁と裁判長宛に出して帰ってきた(正確に言うと手書きでノートに書いてビリッと破り出しにいったのだが、「これはちょっと」と言われ、「ですか。やっぱり?」と帰宅ししてパソコンで青書してFAXした。)
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