112.遺跡は何を語るか-群馬県長野原町
11月14日、群馬県の小川晶・県議、角倉邦良・県議が、八ッ場ダムの水没予定地や付替道路予定地から発掘された遺跡の発掘調査現場を視察した。群馬県教育委員会事務局の西田健彦・文化財保護課長、群馬県埋蔵文化財調査事業団の中沢悟・八ッ場ダム調査事務所らの説明を受けながら、縄文時代から江戸時代に至る5箇所の遺跡を回った。
東宮遺跡
川原畑地区の東宮(ひがしみや)遺跡は江戸時代、1783年(天明3年)の浅間山噴火で「泥流が家を押しつぶすような形で埋もれたと考えられる」(課長)遺跡だ。21軒が流され四人が死亡した記録が残っている。田んぼが作られていた場所を1.5メートルほど発掘したところ、泥流の下から住居跡が掘り出された。
229年前の8月2日、大噴火で山体崩壊を起こした浅間山は5日となり、土石なだれとなって鎌原村(現、嬬恋村)を襲い、沼を飲み込みながら泥流となって吾妻川を流れ下っていったことが以前からの調査で知られている。
東宮の発掘からは、木が倒れた方向で泥流がこの場所では逆流をしていたことが分かったという。「一気に上から泥流が来たというよりは、何かの理由でジワリジワリと泥流が逆流した場所ではないか。21軒も流され、4人だけが亡くなったというのは、たとえば家族や家畜とまずは逃げて、もう少し何かを取りに戻って流されてしまったということかもしれない」と課長らは当時の様子に想像をふくらませた。
そんな想像が湧いてくるのは、生活の場を彷彿とさせる出土遺物が出てきたからだ。特徴的なのは梅干し。空気に触れて一瞬にして色あせたが食べられるほどに赤い梅の実が出土した壺の中から出てきたという。下駄、キセル、団扇、小判、麻の実が詰まった桶などが出土している。
電信柱が立っているところは除けて発掘したために掘った深さが分かる。写真は掘り出された石垣。住居跡は発掘、報告書作成後に埋め戻されている。
江戸時代と変わらないであろう秋の空。
三平遺跡
二つ目に訪れたのは、工事中の湖面一号橋につながる道路予定地の下から出てきた三平(さんだいら)遺跡。平安時代の暮らし方の跡が見える遺跡だ。
手前から遺跡、建設中の湖面一号橋、対岸の山肌に造成された打越代替地に建った住居が並ぶ。
この遺跡で特徴的なのは落とし穴だ。何を採るためだったのかは推測の域を出ない。「シカかイノシシか・・・」動物の通り道に掘り、落としてそれを食べたのではないか。ラッパ型でストンと落ちやすく、細長くすることで出ようと思っても胴がつかえて出られない形状ではないかという。人の身長以上の深さだ。
住居と考えられる跡もある。赤ちゃけた焼土の跡でかまどの場所が分かるという。下の写真では手前側のでっぱりのところがそれらしい。この地域では西から東に風が吹くので、東側に設けられたかまどが多いと言う。
平安時代と言えば、文書に残っている紫式部のような貴族の世界を私たちは思い浮かべるが、庶民の生活はこんなに小さな住居で営まれていたのか。知るすべはそうは残されてはいなさそうだ。
なお、この住居跡の真ん中にある穴は、住居があったときとは違う時に作られたものだったのではないかという。どちらが先か、この穴が何に使われたのかは分からないものらしい。
上原Ⅰ
三つめに訪れたのは、現在、限られた人員を集中させて発掘をしている林地区の上原I。道路と造成地予定地となったため発掘調査が入り、前期・後期の縄文時代から平安時代の4軸の住居跡や落とし穴10基などが出てきた。写真右手に上原Ⅱ~Ⅳまである。
発掘中の高さと、左端の21世紀の高さが埋まっていた土の深さを示す。草などが腐っては土になり、斜面の中腹なので上から雨などで流れてくる土もたまるので、深くなるのだという。奥に見えるのは掘って出てきた土。
縄文式土器が見つかった住居跡。半円形の住居なのかと思えば、こうした調査は公共事業地の下のみ掘るものだそうで、左半分は今後も土の中に埋まり続ける。もしこれから1万年後にここを掘る人がいたら、縄文時代の居住跡を半分壊して道路を作った今の私達の行状が読みとれるのだろうか。いや、この電子文書がなんらかの形で1万年後に残ったら、そう思考していた事実を知ってもらえるだろうか。それとも・・・・・。
今回の視察に加わった縄文遺跡の専門家、文化財保存全国協議会の勅使河原彰氏によれば、この土器の左側が口、右側が底。
「闇夜の烏です」と群馬県埋蔵文化財調査事業団の中沢悟・八ツ場ダム調査事務所長らがこれから発掘する穴を表現した。発掘中の専門家が、薄いオレンジ色に見える「火山灰のばらつきや粒が他とは微妙に違うことで分かる」と解説してくれるが、筆者が目を凝らして見てもまったく分からない。発掘作業には素人である長野原住民も雇用されているが、個人差はあるが半年ぐらいで見分けることができるようになる人もいう。勅使河原彰氏も感嘆していた。
こうした発掘現場で作業を共にすれば、「家族同然となる」「かあちゃんと過ごすよりも長い時間を過ごすもんなぁ」という。現地採用も行われるので、地域にとっては貴重な現金収入の機会となる一方で、住民の土地が買収され立ち退き後に初めて行われる調査であり複雑な思いが交錯することだろう。
美しく掘り出された竹の子のように見える縄文土器の底。
発掘現場で見ると、博物館などでは考えたこともないことが頭に蘇った。
エクアドルのアマゾン川源流で、こんな形の土器を火の中にドンと立てて使うのを見たことがある(現場でこれを見ながらメキシコと言ってしまったが、エクアドルの間違いです!)。IHヒーターがあるわけでもなし、焚き火に直火で使う土器の底が平らである必然性はなく、縦長でとがっている方が火の中に突き立て易い。すわりの悪い格好をしたのは、火の中につきたてて使う調理器具だったのでは?と縄文時代への妄想が膨らんだ。
このような遺跡はどこにでも出てくるというわけではない、むしろ山あいでは珍しいのだと言う。縄文時代の前期は地球温暖化で内陸まで海が入り、栗などの落葉広葉樹が豊富だったからではないかという。
横壁中村遺跡
四番目は、長野原名物「丸岩」から見下ろせる横壁地区の中村遺跡。水没予定地住民の移転先として作られた代替地や道路の下から縄文遺跡が出た。すでに盛土をして道路になってしまったところで説明を受けた。
2万平米にわたる大規模な集落跡で、7千年から8千年ぐらい前の長い期間の累計で200軒ほどがあった場所だ。十数軒から成る直径およそ200メートルの環状の集落も見つかった。特徴的なのはその環状集落の真ん中にお墓がすえられていたこと。「死んだ方も合わせて家族として一緒に暮らしたのではないか」という。こうした環状集落の円をつないで描いてみると、川の向こうまでその集落が続いている。縄文時代は、吾妻川は今とは違う流れ方をいたのだろうという。
この同じ場所には中世の館(立派な屋敷)や4~5軒の掘っ立て小屋も見つかった。
「ここは太陽が丸岩の向こうに3時を過ぎると沈んでしまい、とても寒い。それでも時代を超えて住居として使われたといういことは、一つには川は強酸性で使えなかったが、山からの沢水が良かったのだろうということ、一つには多様な動植物が手に入り生活がしやすかったのだろうと考えられます」との説明にうなづくばかりだ。
電信柱や電線を除けば、これが彼らが見ていた風景だ。
石川原遺跡
最後に川原湯地区の石川原遺跡に来た。2009年に「十字架」で有名になった橋と川原湯温泉の間に位置する。江戸時代の田畑と屋敷集落が見つかった。数万平米の広さがあると考えられるが、川原湯地区にはまだ未買収地があるために、一部のみしか調査は進んでいない。駅への帰り道、水没予定地にはまだまた、従来の暮らしを続けている家屋や畑が残っていることに気づかされた。
今回の視察に長野原町から参加した地元住民からは「予定地一体を遺跡パークにしたらいいのではないか」との声も聞かれた。口にした者もしなかった者も、同様のことを考えた人は少なくなかったのではないか。
専門家も加わっての県議二人の視察に同行取材させていただいたことに感謝します。
・・・鈍行列車で帰る途中、日経メールニュースで「16日解散」と入っていた・・・。
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お疲れ様でした。
リンク貼っておきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/spmpy497/7816632.html
投稿: Kenji KAJIWARA | 2012年11月15日 (木) 12時00分